おうみブログ2022-03-29T17:42:04+09:00

おうみブログ

近江学研究所研究員が、近江にまつわるさまざまな情報を発信するブログです。

文化・経済フォーラム開催される!

12月23日に「文化で滋賀を元気に!キックオフ・フォーラム」(滋賀県・文化庁・実行委員会主催)<1部>と「文化・経済フォーラム2009」(実行委員会主催)<2部>が大津市のピアザ淡海で開催されました。
1部の基調講演は劇作家で内閣官房参与、大阪大学大学院教授の平田オリザ氏が「文化の公共性を問う~なぜ今、地域に文化が必要なのか」と題して講演されました。漫画「ドラえもん」に出てくる広場や阪神・淡路大震災の復興の過程など例を挙げられ、コミュニケーションの重要性を指摘、そのコミュニケーションをいかに持つかというところに音楽や美術、スポーツなどのいわゆる芸術文化が効果的に機能する。そしてそれらをつなぐ新たなネットワークの構築がこれからの社会には不可欠であると語られました。
また、フランスのナントと北海道の富良野を例に挙げ、文化による地方都市の活性化とブランド力アップの必要性を訴え、国際的な優れた芸術文化の振興を国が進める一方で、文化行政や芸術教育を地方が支えるという二局で芸術文化を推進させることが大切であると指摘されました。
その後、平田氏に青木保・前文化庁長官と嘉田由紀子滋賀県知事を加えてパネル討論会がおこなわれました。その中で嘉田知事は「滋賀県は豊かな環境や歴史文化資源を潜在的に持っており、それをいかに上手く活かす必要性がある」としながら、県立施設の見直し問題についてはその難しさを強調されました。
夕刻5時からは「第2回文化・経済フォーラム2009」と題してその実行委員会が懇親会を開催し、県内の文化団体や活動家、経済団体など約200名が集い、さまざまなかたちで交流が行われました。
成安造形大学からも多くの教職員が参加し、県内唯一の芸術大学である責務を感じ、いかに県内の文化活動に寄与し、滋賀ブランド構築の一助にならなければならないという自覚をあらためて感じました。近江学研究所所員もまず歴史文化資源の発掘とそれらをわかりやすくより多くの県民に知ってもらう努力を続け、その新たな地域学から生まれる21世紀の社会に必要な考え方を構築しなければならないと再認識しました。

加藤賢治(近江学研究所研究員)

2010年1月7日|Categories: おうみブログ, イベント|

おうみ紀行その2 〜桑實寺(くわのみでら)〜

JR安土駅を繖(きぬがさ)山方面へ向かって左に安土城趾を見ながら20分ほど歩くと桑實寺への登り口につきます。桑實寺の開山は古く天智天皇にさかのぼります。天智天皇の第4皇女阿閇(あべ)姫が疫病にかかったとき、病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見られたということで、天皇が当寺を開山した定恵和尚に命じて法会を開かせると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明がさしたといわれています。この話は天文元年(1532)に足利12代将軍義晴の命で宮廷絵師の土佐光茂が絵巻物『桑實寺縁起絵巻』に仕立て上げ、現在国の重要文化財に指定されています。
 その12代将軍足利義晴は戦乱続く京都を離れ、観音寺城の佐々木氏を頼って3年間この桑實寺に仮の幕府を置いたそうです。また、時代が下って織田信長は永禄11年(1568)近江侵攻の中で観音寺城の六角佐々木氏を滅ぼし、足利義昭(この年に15代将軍となる)をこの桑實寺に迎え入れました。
 今は山腹にある静かな山寺ですが、中世末期には政治の中枢にあった大寺院であったようです。
 山裾から山寺らしい石段が山頂へと向かって続き、その途中に山門があり、まだまだ続く石段をのぼるとようやく本堂へ。本堂は国の重要文化財で単層入母屋造の檜皮葺、優美な天台様式です。ご本尊は薬師如来で「かま薬師」の俗称があり、できものに霊験があると言い伝えられているそうです。桑實寺が創建された年が寅年であったことから虎との縁が深く、本堂内部の外陣には狩野派の絵師が描いた虎の衝立が2つ展示してありました。
 1日にどれくらいの人たちが訪れるのでしょうか。このように山里深く入り込んだ静謐な山寺が天智天皇の白鳳年間に創建され、中世には足利将軍が幕府を置いたという歴史を持つと聞くと、近江国の歴史の深さをあらためて感じました。
 帰り道、長い石段を降りていますと、その真正面に冬枯れの湖東平野に三上山が見え、寅年の新年を清々しく迎える心地になりました。

加藤賢治(近江学研究所研究員)

本堂

本堂

長い石段

長い石段

山門

山門

2010年1月4日|Categories: おうみブログ, エッセイ|

おうみ紀行その1 〜湖北菅浦を訪ねて〜

仕事納めを終えた平成21年最後の日曜日、師走27日に湖北菅浦を訪ねました。近江を愛した随筆家白洲正子がその著書『かくれ里』でとりあげた集落です。大学から湖西路を北にゆっくり走って約2時間、今津をこえ、桜で有名な海津方面へ湖岸を行く。有名な桜の木々はこの時期全くの冬枯れでした。ただ、この日は普段なら身に染みる寒さと時雨模様であるはずですが、天候に恵まれおだやかに晴れており過ごしやすい一日でした。
 菅浦はかつて陸の孤島と呼ばれ、湖上からでないと集落に入ることが出来ませんでしたが、地理上のこの立地が村に様々な伝承を伝えています。村の東西の入り口には草葺の棟門(四足門)が中世村落の雰囲気を伝えてくれます。その東の門を入ったところにこの村の中心となる須賀神社があります。この神社の祭神は淳仁天皇(733~765)で、村の人々はこの淳仁天皇に仕えた人々の子孫であると言い伝えられています。淳仁天皇は奈良時代の末期、孝謙上皇や弓削の道鏡、藤原仲麻呂らの政争に巻き込まれ、淡路に流され非業の死を遂げた廃帝として知られますが、菅浦には淡路というのは淡海(近江)の誤りで、そのなきがらを菅浦の人々がこの地に葬ったという伝説があります。
 白洲正子の『かくれ里』にはその伝承が詳しくつづられています。須賀神社に参拝されたシーンで
「神社の石段の下で、私たちは靴をぬがされた。跣(はだし)でお参りするのがしきたりだそうで、たださえ冷たい石の触感は、折りしも降りだした時雨にぬれて、身のひきしまる思いがする。それはそのまま村人たちの信仰の強さとして、私の肌にじかに伝わった。」という一節があります。今でも石段の下には「土足厳禁」という石版がありましたが、白子氏が参拝されたときと違いその石版の下にスリッパが置いてありました。
 そのスリッパをお借りして参拝を済ませ、石段を降りる途中、奥琵琶湖の深い青色の湖面に日の光がきらめき、古い瓦屋根の集落を眺めていると、タイムスリップをしたような非日常を心身ともに深く感じました。

加藤賢治(近江学研究所研究員)

四足門

四足門


須賀神社

須賀神社


菅浦

菅浦

2009年12月27日|Categories: おうみブログ, エッセイ|

越前朝倉氏一乗谷遺跡を訪ねてきました!

紀行文 ~智将明智光秀の伝承を追う~
智将明智光秀の足跡を訪ねるために、12月12日・13日の2日間、研究と称して越前国(福井県)を訪ねてきました。明智光秀が最盛期に領地としていた京都丹波地方や滋賀大津坂本では、光秀が決して単なる謀反人ではなく魅力ある武将だと主張する顕彰会があり、根強く活動を続けておられます。近江学研究所木村所長もその立場で論考を書かれており、織田信長に仕える前に仕官していた越前朝倉氏の居城一乗谷を中心に光秀の伝承をたどりました。

丸岡城

丸岡城

12日の土曜日今年度最後の講座「近江学」を終え、午後1時半越前国を目指しました。午後4時に始めの目的地、徳川家重臣本多氏の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一明快な短い手紙で有名な丸岡城を訪ねました。ここは程ほどにして次の目的地へ。同じく丸岡町の時宗の古刹称念寺を訪れました。ここは有名な光秀と妻(ひろこ)に関する伝承が残るところです。光秀は美濃国土岐氏の出身で始めは美濃の戦国大名斎藤道三に仕えていましたが、道三が家臣の反乱に破れたため、美濃を捨てて越前朝倉氏をたよりました。朝倉氏のもと光秀は大変貧困な仕官生活を送っていましたが、あるとき重要な連歌会を開かねばならなくなりました。そんな時、妻(ひろこ)が自分の黒髪を売って連歌会を開催する費用を捻出したという故事があります。その故事を「奥の細道」を綴った松尾芭蕉がこの地で知り、伊勢神宮の神官である弟子を伊勢に訪ねたとき、あまりにその妻がかいがいしく夫と旅人の世話をしてくれることに感動し、越前丸岡での光秀の妻(ひろこ)の故事を思い出して「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」という句を読んだというのです。数多い芭蕉の句の中でも女性が登場するのはこの句だけだという事です。

称念寺芭蕉句碑

称念寺芭蕉句碑

称念寺は芭蕉が光秀の話を聞いたという記念の場所であり、その句碑がひっそりと佇んでいました。この古刹は南北朝時代の名将新田義貞公の墓所があることで有名です。新田義貞はともに鎌倉幕府を倒した室町幕府初代将軍足利尊氏と盟友でありましたが、最後は相反して対立し京を追われ、妻を近江堅田に残して越前丸岡の地で戦死しました。義貞公の立派な墓所にもお参りをして、夕刻福井市街地のホテルに入りました。

称念寺

称念寺

翌日は、福井と言えば北庄(きたのしょう)、柴田勝家と信長の妹お市が暮らした北庄城跡を訪ねました。今となっては石垣の一部がかろうじて発掘により残っているだけで、その場所は柴田神社となっていました。かつての石垣や勝家とお市の銅像を見ることができ、在りし日の二人を思い浮かべました。

柴田勝家公

柴田勝家公

その後、朝倉氏の居城一乗谷を目指しました。一乗谷の入口にある資料館を始めに訪ね予習しました。天目茶碗を中心とした室町時代の茶器の出土品が陳列されており、都から遠く離れた地方の城郭でありながら、当時この地に都の文化が花開いていたことを知りました。また、越前における一乗谷の位置がよくわかり、なぜここを朝倉氏が選んだのかという疑問も少しは解けた気がしました。

朝倉氏邸宅跡

朝倉氏邸宅跡

そしていよいよ朝倉氏の城下町一乗谷遺跡です。約400年前の遺跡ですので基本的には何もないのですが、大規模な発掘調査の成果として、5代100年続いた朝倉氏の大邸宅跡や戦国時代にタイムスリップしたかと疑う、城下町を再現した町並みを見学しました。
広大な面積を誇る朝倉氏の邸宅跡は、多くの井戸のあとや茶室跡、大規模な池泉回遊式庭園のあとなどがあり、荒々しい武将のイメージよりも一流の文化人としての一面が見え、戦国武将のもう一つの姿をそこに発見することができました。

一乗谷城下町再現

一乗谷城下町再現

光秀が朝倉氏に仕官していた時は一乗谷から車で15分程度、小さな峠を越えた東大味(ひがしおおみ)という集落に住んでいたと言われています。そこには明智神社という小さな祠(ほこら)があるということなので訪ねてみました。
明智神社という大きな看板がありその下にはひらがなで小さく「あけっつあま」と記されていました。この集落では光秀をそのように呼んで親しんでいるのだろうと想像できました。小さな祠の前には「細川ガラシャ誕生の地」と書かれた立派な石碑があり、坂本西教寺にある顕彰会の銘が彫られていました。

東大味の集落

東大味の集落


明智神社

明智神社

「本能寺の変」という日本の歴史の中でも最も重要な出来事をやってのけた人物でありながら、なぜやったのか?という「なぞ」に包まれています。だからこそ彼に魅力を感じる人も多いのだと思います。
神仏を恐れず、天皇家までをも滅ぼそうと考えていたといわれる信長。彼こそが朝廷に反する逆賊であり、それを討った光秀こそが英雄ではないか。光秀にまつわる旧跡を訪ねてそんな声が聞こえてきました。

報告:近江学研究所研究員 加藤賢治

2009年12月22日|Categories: おうみブログ, エッセイ|

平成21年度 第11回「近江の城物語」

講座名 近江の城物語
日 時 平成21年12月12日(土) 10:40~12:00
場 所 成安造形大学 本部棟三階ホール
講 師 中井均 (NPO法人城郭遺産による街づくり協議会理事長)

(さらに…)

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