8月19日(火)研修と称して北陸福井県永平寺に行ってきました。
ご承知のとおり曹洞宗(そうとうしゅう)総本山永平寺(えいへいじ)は鎌倉時代に宗祖道元(どうげん)(1200~1253)が建立した禅宗寺院です。本来、念仏宗が念仏を称えると阿弥陀仏がすばらしき来世を必ず約束してくれるという他力宗教であるのに対し、禅宗は自ら坐禅(ざぜん)にて精神修養し、無になって悟りを開き仏となるという自力宗教であるとされています。しかし、道元の曹洞宗は禅宗でありながら少々異なり、道元は「修証(しゅうしょう)一如(いちにょ)」すなわち、修行の結果として悟り(証)に達するのではなく、修行(坐禅)そのものが悟りだといっています。
その思想の背景として、道元が比叡山で学んだ「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しつかい)成仏(じょうぶつ)」すなわち山も川も草も木もみんな仏性=仏の心を持ち、すでに悟りの境地にあるという「天台本(てんだいほん)覚(がく)思想」の強い影響がみられます。本覚思想は道元に限らず、比叡山で修行を積んだ法然や親鸞、日蓮や一遍等、仏教各派の宗祖や、修験道・神道等の思想にも少なからず影響を与え、木も草も人間とともに悟りを得るわけであるから、人間と自然とが平等、一体であるという、日本独特の思想を育んだといえます。
道元の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』全九十五巻をみますと、難解な思想が語られる一方で、修行者には欠かせない衣服について語る「袈裟(けさ)功徳(くどく)」の巻や食事に必要な食器について語る「鉢盂(ほう)」の巻、毎朝の洗面について語る「洗面」、大小便の際の作法や意味についての「洗浄」という巻があり、人間が生きていく上で欠かせない日常生活すべてを含めた偉大なる思想が説かれています。永平寺で修行する雲水(うんすい)(修行僧)たちは朝、3時半に起床し、修行が始まるが、読経、食事の他、特に作務(さむ)と呼ばれる草抜き・掃き掃除・廻廊清掃・雪掻き等が重要視されます。また、食事や洗面、入浴、用便の時も、会話することが許されず、音を出すことさえも禁じられるという非常に細やかな作法と規則に支配されています。なぜそのようなことをするのかという疑問が出てきますが、無心で作務を行うことがすなわち悟りとなるのであるといわれています。
七堂(しちどう)伽藍(がらん)<法堂・仏殿・僧堂・東司(とうす)(便所)等の建物>を結ぶ廻廊は常に塵(ちり)一つなく完璧に磨かれています。無心で廻廊清掃に従事する雲水を眺めていると、いつの間にか彼らが見えなくなる(いなくなる)ような錯覚に陥りました。彼らが無になって全ての作務を行うとき、七堂伽藍とその背後に迫る山川草木とが完全に同化して見えなくなるような気がしました。そう感じたとき、壮大な宇宙の中で人間のみが煩悩を抱え無になれない生命体であるのかもしれないと思いました。これが道元禅師の残そうとした思想なのでしょうか。
永平寺には深遠なる道元禅師の思想が染み込み、今も静かに北陸の地で日本の心を語っているように思いました。  
報告:近江学研究所研究員 加藤賢治