おうみ紀行その2 〜桑實寺(くわのみでら)〜

2010年1月4日

JR安土駅を繖(きぬがさ)山方面へ向かって左に安土城趾を見ながら20分ほど歩くと桑實寺への登り口につきます。桑實寺の開山は古く天智天皇にさかのぼります。天智天皇の第4皇女阿閇(あべ)姫が疫病にかかったとき、病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見られたということで、天皇が当寺を開山した定恵和尚に命じて法会を開かせると湖中より生身の薬師如来が現れ大光明がさしたといわれています。この話は天文元年(1532)に足利12代将軍義晴の命で宮廷絵師の土佐光茂が絵巻物『桑實寺縁起絵巻』に仕立て上げ、現在国の重要文化財に指定されています。
 その12代将軍足利義晴は戦乱続く京都を離れ、観音寺城の佐々木氏を頼って3年間この桑實寺に仮の幕府を置いたそうです。また、時代が下って織田信長は永禄11年(1568)近江侵攻の中で観音寺城の六角佐々木氏を滅ぼし、足利義昭(この年に15代将軍となる)をこの桑實寺に迎え入れました。
 今は山腹にある静かな山寺ですが、中世末期には政治の中枢にあった大寺院であったようです。
 山裾から山寺らしい石段が山頂へと向かって続き、その途中に山門があり、まだまだ続く石段をのぼるとようやく本堂へ。本堂は国の重要文化財で単層入母屋造の檜皮葺、優美な天台様式です。ご本尊は薬師如来で「かま薬師」の俗称があり、できものに霊験があると言い伝えられているそうです。桑實寺が創建された年が寅年であったことから虎との縁が深く、本堂内部の外陣には狩野派の絵師が描いた虎の衝立が2つ展示してありました。
 1日にどれくらいの人たちが訪れるのでしょうか。このように山里深く入り込んだ静謐な山寺が天智天皇の白鳳年間に創建され、中世には足利将軍が幕府を置いたという歴史を持つと聞くと、近江国の歴史の深さをあらためて感じました。
 帰り道、長い石段を降りていますと、その真正面に冬枯れの湖東平野に三上山が見え、寅年の新年を清々しく迎える心地になりました。

加藤賢治(近江学研究所研究員)

本堂

本堂

長い石段

長い石段

山門

山門

おうみ紀行その1 〜湖北菅浦を訪ねて〜

2009年12月27日

仕事納めを終えた平成21年最後の日曜日、師走27日に湖北菅浦を訪ねました。近江を愛した随筆家白洲正子がその著書『かくれ里』でとりあげた集落です。大学から湖西路を北にゆっくり走って約2時間、今津をこえ、桜で有名な海津方面へ湖岸を行く。有名な桜の木々はこの時期全くの冬枯れでした。ただ、この日は普段なら身に染みる寒さと時雨模様であるはずですが、天候に恵まれおだやかに晴れており過ごしやすい一日でした。
 菅浦はかつて陸の孤島と呼ばれ、湖上からでないと集落に入ることが出来ませんでしたが、地理上のこの立地が村に様々な伝承を伝えています。村の東西の入り口には草葺の棟門(四足門)が中世村落の雰囲気を伝えてくれます。その東の門を入ったところにこの村の中心となる須賀神社があります。この神社の祭神は淳仁天皇(733~765)で、村の人々はこの淳仁天皇に仕えた人々の子孫であると言い伝えられています。淳仁天皇は奈良時代の末期、孝謙上皇や弓削の道鏡、藤原仲麻呂らの政争に巻き込まれ、淡路に流され非業の死を遂げた廃帝として知られますが、菅浦には淡路というのは淡海(近江)の誤りで、そのなきがらを菅浦の人々がこの地に葬ったという伝説があります。
 白洲正子の『かくれ里』にはその伝承が詳しくつづられています。須賀神社に参拝されたシーンで
「神社の石段の下で、私たちは靴をぬがされた。跣(はだし)でお参りするのがしきたりだそうで、たださえ冷たい石の触感は、折りしも降りだした時雨にぬれて、身のひきしまる思いがする。それはそのまま村人たちの信仰の強さとして、私の肌にじかに伝わった。」という一節があります。今でも石段の下には「土足厳禁」という石版がありましたが、白子氏が参拝されたときと違いその石版の下にスリッパが置いてありました。
 そのスリッパをお借りして参拝を済ませ、石段を降りる途中、奥琵琶湖の深い青色の湖面に日の光がきらめき、古い瓦屋根の集落を眺めていると、タイムスリップをしたような非日常を心身ともに深く感じました。

加藤賢治(近江学研究所研究員)

四足門

四足門


須賀神社

須賀神社


菅浦

菅浦

越前朝倉氏一乗谷遺跡を訪ねてきました!

2009年12月22日

紀行文 ~智将明智光秀の伝承を追う~
智将明智光秀の足跡を訪ねるために、12月12日・13日の2日間、研究と称して越前国(福井県)を訪ねてきました。明智光秀が最盛期に領地としていた京都丹波地方や滋賀大津坂本では、光秀が決して単なる謀反人ではなく魅力ある武将だと主張する顕彰会があり、根強く活動を続けておられます。近江学研究所木村所長もその立場で論考を書かれており、織田信長に仕える前に仕官していた越前朝倉氏の居城一乗谷を中心に光秀の伝承をたどりました。

丸岡城

丸岡城

12日の土曜日今年度最後の講座「近江学」を終え、午後1時半越前国を目指しました。午後4時に始めの目的地、徳川家重臣本多氏の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一明快な短い手紙で有名な丸岡城を訪ねました。ここは程ほどにして次の目的地へ。同じく丸岡町の時宗の古刹称念寺を訪れました。ここは有名な光秀と妻(ひろこ)に関する伝承が残るところです。光秀は美濃国土岐氏の出身で始めは美濃の戦国大名斎藤道三に仕えていましたが、道三が家臣の反乱に破れたため、美濃を捨てて越前朝倉氏をたよりました。朝倉氏のもと光秀は大変貧困な仕官生活を送っていましたが、あるとき重要な連歌会を開かねばならなくなりました。そんな時、妻(ひろこ)が自分の黒髪を売って連歌会を開催する費用を捻出したという故事があります。その故事を「奥の細道」を綴った松尾芭蕉がこの地で知り、伊勢神宮の神官である弟子を伊勢に訪ねたとき、あまりにその妻がかいがいしく夫と旅人の世話をしてくれることに感動し、越前丸岡での光秀の妻(ひろこ)の故事を思い出して「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」という句を読んだというのです。数多い芭蕉の句の中でも女性が登場するのはこの句だけだという事です。

称念寺芭蕉句碑

称念寺芭蕉句碑

称念寺は芭蕉が光秀の話を聞いたという記念の場所であり、その句碑がひっそりと佇んでいました。この古刹は南北朝時代の名将新田義貞公の墓所があることで有名です。新田義貞はともに鎌倉幕府を倒した室町幕府初代将軍足利尊氏と盟友でありましたが、最後は相反して対立し京を追われ、妻を近江堅田に残して越前丸岡の地で戦死しました。義貞公の立派な墓所にもお参りをして、夕刻福井市街地のホテルに入りました。

称念寺

称念寺

翌日は、福井と言えば北庄(きたのしょう)、柴田勝家と信長の妹お市が暮らした北庄城跡を訪ねました。今となっては石垣の一部がかろうじて発掘により残っているだけで、その場所は柴田神社となっていました。かつての石垣や勝家とお市の銅像を見ることができ、在りし日の二人を思い浮かべました。

柴田勝家公

柴田勝家公

その後、朝倉氏の居城一乗谷を目指しました。一乗谷の入口にある資料館を始めに訪ね予習しました。天目茶碗を中心とした室町時代の茶器の出土品が陳列されており、都から遠く離れた地方の城郭でありながら、当時この地に都の文化が花開いていたことを知りました。また、越前における一乗谷の位置がよくわかり、なぜここを朝倉氏が選んだのかという疑問も少しは解けた気がしました。

朝倉氏邸宅跡

朝倉氏邸宅跡

そしていよいよ朝倉氏の城下町一乗谷遺跡です。約400年前の遺跡ですので基本的には何もないのですが、大規模な発掘調査の成果として、5代100年続いた朝倉氏の大邸宅跡や戦国時代にタイムスリップしたかと疑う、城下町を再現した町並みを見学しました。
広大な面積を誇る朝倉氏の邸宅跡は、多くの井戸のあとや茶室跡、大規模な池泉回遊式庭園のあとなどがあり、荒々しい武将のイメージよりも一流の文化人としての一面が見え、戦国武将のもう一つの姿をそこに発見することができました。

一乗谷城下町再現

一乗谷城下町再現

光秀が朝倉氏に仕官していた時は一乗谷から車で15分程度、小さな峠を越えた東大味(ひがしおおみ)という集落に住んでいたと言われています。そこには明智神社という小さな祠(ほこら)があるということなので訪ねてみました。
明智神社という大きな看板がありその下にはひらがなで小さく「あけっつあま」と記されていました。この集落では光秀をそのように呼んで親しんでいるのだろうと想像できました。小さな祠の前には「細川ガラシャ誕生の地」と書かれた立派な石碑があり、坂本西教寺にある顕彰会の銘が彫られていました。

東大味の集落

東大味の集落


明智神社

明智神社

「本能寺の変」という日本の歴史の中でも最も重要な出来事をやってのけた人物でありながら、なぜやったのか?という「なぞ」に包まれています。だからこそ彼に魅力を感じる人も多いのだと思います。
神仏を恐れず、天皇家までをも滅ぼそうと考えていたといわれる信長。彼こそが朝廷に反する逆賊であり、それを討った光秀こそが英雄ではないか。光秀にまつわる旧跡を訪ねてそんな声が聞こえてきました。

報告:近江学研究所研究員 加藤賢治

講座「近江の城物語」開講しました。

2009年12月12日

講座名 近江の城物語
日 時 平成21年12月12日(土) 10:40~12:00
場 所 成安造形大学 本部棟三階ホール
講 師 中井 均 (NPO法人 城郭遺産による街づくり協議会理事長)

平成21年度最後の近江学フォーラム会員限定講座「近江の城物語」開講しました。近江がまさに城の国であることを分かりやすく解説いただきました。ご来場いただきました会員の皆様ありがとうございました。

仰木学入門・仰木森林学プロジェクト科目「収穫祭」開かれる!

2009年12月7日

12月5日(土)大学がある地元「仰木」の村落をフィールドワークするプロジェクト科目が最終日を迎えました。
この科目は、4月から全8回を数え、仰木村落フィールドワーク、仰木祭りの見学、田植え、稲刈り、間伐材の伐採、木工工作、山林測量など様々な体験を通して自分や地域、社会を見つめ直すという目的で開講されています。
この日は最終回ということで、参加した学生は2時間目にI棟プレゼンテーションルームで自分が仰木のフィールドで得たもの(収穫)を一人一人披露しました。
その後、午後から仰木でお世話になりました方々を招待し、「収穫祭」と題して、懇親会を開催しました。
大学内の自然食カフェレストラン「結」の釜戸で、学生たちがつくった仰木棚田米を炊き、担当教員の小林はくどう先生が仰木の野菜と猪肉をふんだんに使った名物「はくどう鍋」を準備され、みんなでおいしくいただきました。
特別講師の蔭山歩先生も「仰木には大切に守られてきたものがたくさん残っています。それらに気づいた学生さんたちはこの授業の中で何か大きなものを得たことと思います」とあいさつされました。
仰木の皆さんも、「森林保護活動も含めこのような活動を閉ざすことはできない。みんなで協力して続けていきましょう」と次年度へ向けての意気込みも語られました。

報告:近江学研究所 研究員 加藤賢治

結での懇親会

結での懇親会

釜戸での炊飯指導を受ける学生たち

釜戸での炊飯指導を受ける学生たち


プレゼンルームでの発表会

プレゼンルームでの発表会

棚田・里山、湖辺の郷 淡海の夢2009 風景展

2009年11月25日

公募風景展です。
近江(滋賀県)を題材とした、一般の方、学生の素敵な作品をご高覧ください。

会期: 2009年11月23日(月)〜12月4日(金)
    12:00〜18:00 日曜休館

会場: 成安造形大学 ギャラリー アートサイト
    〒520-0248 滋賀県大津市仰木の里東4-3-1
    TEL: 077-574-2118(芸術文化交流センター直通)

アクセス: JR湖西線「雄琴駅」下車、駅前よりスクールバスにて5分。

成安造形大学の詳細(地図など)

成安造形大学が立地する滋賀県大津市仰木(おおぎ)には、比叡山、比良山を遠望し、豊かな琵琶湖の水系に育まれた里山環境が残されています。 自然と人の暮らし(いとなみ)の調和、多様な命の共存、そのありようは近年、多くの人々の関心を集めています。
 琵琶湖=あたたかく恵み多き淡水の湖、そこから生まれてくる未来へのヴィジョン、そんな意味を込めて名付けた「淡海の夢(あわみのゆめ)」。広く一般の方にご出品いただいた本展は、「棚田・里山、湖辺の郷」をテーマとした成安造形大学附属芸術文化交流センター公開講座「淡海の夢2009」企画の一環です。
 アートには日常の中にある「美」を認識させる力があります。意識して見ようとしなければ見えてこないものが私たちのまわりにはあふれています。画家の眼、写真家の眼は、そうした何気ない「美」を鋭敏にとらえて作品を生み出します。そうして表現された作品と鑑賞者との間に共通の想いが響きあい、感動が生まれます。アートを通して豊かな感受性を目覚めさせ、磨くことが、本学の使命であり、この企画の目指すところです。
 都会で育った人たちにも棚田・里山風景は「日本の原風景」のなつかしさを感じさせ、感銘を与えます。 この展覧会を通して、滋賀県(近江)の自然や町並み、生活の営みのあり方が、美しく、価値あるものだと感じていただければ幸いです。

プロジェクト科目「仰木森林学」最終日!修了式が行なわれました

2009年11月24日

11月22日(日)仰木森林学(全4回)の授業もいよいよ最終日となりました。1回目は山林フィールドワーク、2回目は山林間伐作業、3回目は切り出した間伐材を利用した木工作品制作と続き、最終回は山林の面積を計測する測量実習が行なわれました。
専門の県の職員さんから直接ご指導いただき、地元の方々と一緒に3班に分かれて測量作業を行ないました。専門の機材(望遠スコープ)を使っての作業。慣れるまでは戸惑いますが、慣れれば木々の間隙をぬってポイントとなる赤白の棒を探すという難しい作業も徐々に快感に変わっていきました。
午前中、この測量実習を行い上仰木の自治会館で昼食、その後、各班が測量結果を発表して、仰木森林学の締めくくり「修了式」へ。
修了式では上海からの留学生が「私の生まれ育った上海には仰木のような山がなく、この4回の授業は本当に刺激的でした。森林を守ることの大切さ、またその苦労が、そして森林を守る地元の方々の熱い情熱がこの体験によってよくわかりました。これからもこのような活動に参加したいです」とコメントをくれました。
4回の授業に際して、車での送迎や、お昼ご飯の準備、お土産まで戴くなど地元の方々に本当にお世話になりました。ありがとうございました。

報告:近江学研究所研究員 加藤賢治

修了式で感想を語る学生

修了式で感想を語る学生


スコープを使う学生

スコープを使う学生


測量シーン

測量シーン

大津市歴史博物館の企画展を見学しました!

2009年11月21日

11月21日(土)、講座「近江学」の学生さん対象の補講として、大津市歴史博物館の企画展を見学してきました。
企画展は「湖都大津 社寺の名宝展」と題され、大津市内10ヶ所の社寺が保有する仏像と神像を中心とした文化財を集めて開催されていました。
今回の見ものは、展示の方法。普通の展覧会であれば、社寺ごとに文化財を並べて展示するところですが、今回は仏像の種類ごとに分けて展示がされていました。いわゆる仏像というものは、○○如来、○○菩薩などというように、数え切れないほどの種類に分かれています。これは、何千巻あるといわれるお経に基づいて仏像が生まれるからといわれています。このことが仏道に入ってない我々にとっては非常に複雑でわかりにくくなっています。
そこで、今回の展示は、仏像を如来部、菩薩部、明王部、天部と4つの種類に分け、例えば如来部であれば、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来など如来さんを固めて展示し、如来部に属する仏様の特徴が詳しくわかりやすく解説されるようになっています。続いて菩薩部は聖観音菩薩、弥勒菩薩、千手観音菩薩など、各社寺の菩薩部の名宝が並ぶという感じです。
今回の展覧会の図録も本学の卒業生らが仏像のイラストレーションを描いて親しみやすく編集され、大きな反響を呼んで話題となりました。残念ながら展覧会は11月23日で終了となりますが、図録は販売されますので購入できます。是非ご一読ください!
学生たちはこの展覧会を企画されました大津市歴史博物館の寺島典人学芸員の解説を受け、その後じっくり見学をしました。仏像・神像の不思議に触れ、???をたくさん感じながら、日本仏教の一端を垣間見ることができました。

報告:近江学研究所研究員 加藤賢治

比叡山延暦寺三塔を訪ねて

2009年11月17日

11月15日(日)本学教育後援会(保護者会)のOBG会である楽波会(さざなみかい)恒例の研修旅行が行われました。講師は近江学研究所研究員である私、加藤が担当させていただきました。
 9時15分JR大津京駅集合出発、参加者19名で一路比叡山へ。天候は晴れということで恵まれましたが、山頂は肌寒く感じました。
 紅葉がきれいな山頂ドライブウエイ。琵琶湖を下に眺めながら東塔地区へ向かいました。大講堂・根本中堂を拝観し、1200年の間途絶えることなく灯り続けているという不滅の法灯を見学しました。また、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮らがこの比叡山に学んだことにも触れました。
 この研修旅行は比叡山のすべてを巡るということで昼食後、西塔→横川へと向かいました。西塔ではにない堂、仏足石、釈迦堂を見学、道中では12年籠山行や千日回峰行など厳しい比叡山での修行の話をしました。
 横川地区では元三大師良源と恵心僧都源信の思想を紹介し、横川中堂、元三大師堂、恵心院を訪ねました。日本の浄土思想の基礎をつくった源信の思想は阿弥陀信仰や地蔵信仰、また観音信仰として庶民の心を救った。また、その師である比叡山中興の祖良源はたくさんの伝説が語られ、おみくじの元祖という逸話も含めて大師信仰が今も息づいていることなど解説しました。
 成安造形大学はこのような日本仏教の母山である比叡山の麓にあり、これら高僧たちが残した深遠な思想をすぐそばで学ぶことが出来ます。最後には「昨年開設された近江学研究所もそういったものに光を当て、忘れ去られようとするものや見逃しがちな大切なものを改めて検証しようとしています」と締めくくりました。
 身近にあってわかっているようでわかっていない日本仏教の不思議に触れた楽しい時間はあっという間に過ぎ、午後3時30分JRおごと温泉駅で解散しました。
 
 報告:近江学研究所研究員 加藤賢治

京丹波町に破損仏を訪ねました

2009年11月9日

私の研究の一環で、京都府京丹波町の新宮寺というお寺にある破損仏15体を拝観してきました。
11月7日の土曜日朝7時に大津市の自宅を車で出発し、湖西道路を山科へ。山科から京都に入って五条通りを洛西へ、洛西沓掛から京都縦貫道に入り、亀岡、園部、を越えて終点まで行くと京丹波町です。約2時間弱のドライブでした。
新宮寺がある場所は京丹波町「豊田」という集落ですが地元の方は「新宮谷」と呼んでいるようです。
縦貫道終点から国道9号線を福知山方面へ進むと5分ほどで右手に九手神社という神社が見え、そこを山に向かって上がると新宮寺です。ご住職は不在でしたが、お堂を開けていただき拝観させていただきました。
新宮寺の本堂は山の中腹にありますが、そこから石段を100段ほど上がったところに不動堂があり、その堂内に目的の仏様がありました。堂内の中心仏は東寺にいらっしゃる結跏趺坐の国宝不動明王と同じ形式の不動さんです。迫力十分でした。その周りに、痛々しい破損仏が15体安置されています。四天王の一人広目天であるといわれる仏様だけはなんとなく在りし日の様子がうかがえますが、両手と頭と片腕はありません。その他の仏像に到っては、制作当時いずれの仏様であったか想像すらできませんでした。
村人の言い伝えによると、かつては街道沿いにある九手神社に神宮寺があり神仏習合の中で大切に安置されていましたが、明治はじめの廃仏毀釈によってそこから追い出され、村人たちが保管した。中には土に埋めたものもあったかもしれないとのことでしたが、それらが大正期に山中の新宮寺に移され、今このように保管されているという事でした。
この新宮寺の開山は古く、寺伝によると平安時代に遡り、白河上皇が熊野から神仏を勧進した事にはじまるといいます。地図を見ますとこの京丹波町には熊野とつく社寺名をいくつか見ることができます。
この地域は江戸時代にも宿場町として栄えていたようですが、平安時代に遡っても山陰地方と京都を結ぶ幹線道路となっており、熊野の神仏がたくさん鎮座する宗教文化圏を形成していたとも考えられます。
痛々しい仏像を目の前にして、そんな古代のロマンを感じていました。

報告:近江学研究所研究員 加藤賢治

不動堂

不動堂


不動堂への石段

不動堂への石段


新宮寺入口

新宮寺入口


新宮寺への道

新宮寺への道


丹波須知の旧街道

丹波須知の旧街道